甘くはなかった父は子供のころ縫うほどの怪我ぐらいでは心
配などしなかった。
怪我をしたらかえって怒られたくらいだ。
こんな記憶がある。
父が昼寝をしていた時に私が怪我をして医者に行かなければ
ならなくなり起こされた父は心配するどころかひどく怒った。
ある時は、めったに遊んでくれない父と二人で山に行きうれし
くて駆け回っていたら転んで額を竹の切り株にぶつけ顔半分
血だらけになったが手当してくれるどころか知らん顔をしていた。
同じく山に登った時に転んで膝をざっくり切った。兄が背負って
くれたが父は「そんくらいでなんば甘えとるか!」と怒り歩かされた。
よく怪我をする子だと言われていたので父は情けなかったのだろう。
川で溺れて死んだ子を二人知っている。一人は目の前の深み
から引き上げられた。苦しんだであろう顔を今も憶えている。
よく一緒に遊んでいた子は赤痢で死んだ。
自らの過ちで死んだ子らの親はどこかに訴えて賠償金を要求す
ることもなかった。皆で悔み悲しみ生きていることがどういうことか
子供ながらに思い知らされた。
私も増水した球磨川という流れの速い川の岸辺で危うく流されそう
になったことがある。もちろんそんなことがあったとは両親には話さ
なかった。
どこに遊びに行こうが何も言わなかったが心配してもどうしようもな
いと諦めもあったのだと思う。
マムシもよくいた。足元が見えにくいところを歩くときには棒切れで
少し先を叩きながら進めと言われたものだ。
(マムシは他の蛇とは違い近づき過ぎたら攻撃態勢にはいりなかな
か逃げない。しかし、どういうわけか棒切れ等で頭を押さえられあっ
さり捕まりマムシ焼酎や皮を剥がされ干されて薬の原料にされた。
何の効能があるのか知らないが・・・。)
人の生き死にが目の前にあり死にたくなければ自分で考えるしかな
かったその頃は、自立できないいい大人が権利を叫び親の脛や仕組
みに噛り付いて訳の分からぬ理屈をこねて生きられる今のすばらし
い時代に比べたらひどい時代だった。
しかし、勉強できないボンクラな私に諦めと自分でなんとかするとい
う意識を叩き込むにはちょうどいい時代だったのだろう。
私はそんな父と時代と環境で子供時代を過ごした。
大量の写真の整理をした。一枚一枚を手に取り仕分けなが
ら妻や子供や自分のものを見つけると過ぎた時間に帰って
いく。写真はそこに写されていないものを思い出させ連想
させる。
あの頃私は何をしていたか、どこにいたか、何を考えていたか・・。
子供の頃(50年位前)父の海軍時代の写真をよく眺めていた。
モノクロ写真の軍艦、純白の軍服に軍帽姿の父。
かっこいいな、と子供ながらに思ったものだ。
父は空母乗組の戦闘機整備士でミッドウェー海戦の生き残りだった。
父の戦争時代について知っているのはそれくらいだ。
父は海軍時代に相当いろんなことを叩き込まれたようだった。
焼酎飲んで酔っ払ったら歌を歌ったりして楽しい人だったが
決して甘い父親ではなかった。
「掃除もできない奴に何ができる」、「自らすすんでやれ」、
「清潔にしろ」、「使った道具はもとにもどせ」、「整理整
頓しろ」などなどよく言われた。
あるときなど父親に反発していちいち反対や貶す事を言っ
ていたら
「こんあまんじゃく(あまのじゃく)がっ!気色んわるかっ!」
と怒鳴られた。
(「気色がわるい」とは男としては最低の叱られ方である。)
当然、理屈抜きだった。
(本記事は更新時削除されたので再登録した。 2013.5.2 投稿)
〇〇〇装置というある独立行政法人からの依頼案件が
完了しました。
この案件は設計会社数社とのコンペの結果当社の提案
した機構が採用され受注に至りました。
この装置は海水中で使用されるもので深さにより違い
がある△△△を捕獲する装置です。
深さによる△△△の違いを明確にするために他の深さ
で捕獲したものが混入しないよう工夫しなければなら
ず駆動機構が必要でした。
しかし、数百メートルという深さで使用されることも
あり水圧の問題、取扱いの単純化などの条件からモー
タ、シリンダ等のアクチュエータを使用しないことが
必須でした。
この案件については社内でアイデアを募集し進めてみ
ましたがいつもとは勝手の違う条件で考えることは新
鮮な刺激になったのではと考えています。
社内での反応はさまざまで、いろんな意味で今後の参
考になりました。
(設計内容を明確にできませんので一部伏字にしました。
本記事は更新時削除されましたので再登録しました。
2013.4.15 投稿)